【プロフィール】ランニング編

プロフィール
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ランニング関連の記事をご覧になり、「で、あなたは何者?」と思われる方がいらっしゃるかもしれないと思い、ランニングに関する経歴を書き記しておこうというのが本記事です。

トレーニング理論が語られる中で、「陸上経験有無」がよく触れられているのを見かけます。
そのため、私も中高の部活時代から遡って、記載していこうと思います。
「昔これくらいの実力だった奴が、こんな練習したらこれくらいの結果になるんだ」の、「昔」の部分として読んでいただければと思います。

ただ、描き始めると思い出が蘇ってきて、非常に長文になりました。
もはや自分のための記事になってしまったので、あらかじめご了承ください。

書いてみて思うのは、個人としてはそれほどの才能ではない。
にもかかわらず、環境の良さで非常にいい経験をさせてもらったということです。

市民ランナーとしての私は2023年10月より、ダイエット目的でランニングを開始しました。
今はフルマラソンサブ3を目指して、月に300~350km程度走っています。

先日行われた「ちばアクアラインマラソン2024」のハーフマラソンで、1:22:02の記録でした。
今の私の実力値です。
アクアラインマラソンについての詳細は、以下をご覧ください。

4n5(しんご)

娘を溺愛するミドサーパパ。

【キャリア】
大学在学時に、家業が倒産し中退。
派遣社員として携帯ショップに勤務後、正社員となり不振店舗の立て直しに従事。
その後、株式会社一休に転職し、一貫して一休レストラン事業本部に所属。
3年目には新規事業本部にも兼任で所属し、事業部長として一休ふるさと納税サイトを立ち上げた。
4年目には一休レストランの事業本部長に。
2024年10月に退職し、地方創生系のスタートアップにジョイン。

【ランニング】
2023年10月より、ダイエット目的で17年ぶりにランニング再開。
中高では陸上部の中距離専門。
今はマラソンサブ3目標で、月間走行距離300~400km。
ハーフのベストは1時間22分。

【沖縄】
沖縄が好き過ぎて、20歳の頃から毎年沖縄詣。
4歳の娘も、既に6回沖縄を経験済み。
0歳の時に、これまでと同じ感覚でホテルを選び、途中で帰りたくなるほどの大失敗。
そのため、子連れでのホテル選びをサポートできる記事を執筆中。

【読書】
年に100冊程度、気になるジャンルをまとめて5冊前後ずつ読むことが多い。

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学生時代

中学高校と6年間、陸上部に所属していました。

いずれも、非常に環境に恵まれたと思います。
おかげで、中学では全国駅伝、高校では個人1500mで近畿インターハイに出場できました。

すぐ身近に「天才」がいたことで、自分が天から与えられた才能に恵まれていないことは早めに気づけました。
一方で、努力で上位5%には入れるということも学んだ時期です。

では、詳細に入ります。

中学校時代

全国中学駅伝パンフレットより。後列右から2番目が私です。

私は、兵庫県の加古川市出身です。
加古川の知名度は大変低いですが、「姫路市と明石市の間にある」でだいたい場所のイメージはつけていただけるのではないでしょうか?

その加古川にある公立中学「加古川山手中学」に通っていました。
田舎の公立中学なのですが、顧問の先生が、赴任先を複数回全国駅伝優勝に導いてる名将でした。

そんな加古川山手中学時代を振り返ります。

入部まで

周囲の人は、私がバスケ部に入ると思っていたようです。
小学生の時ミニバスケットをしており、身長も165cmと高い方だったので無理はありません。
しかも、私の代では県選抜メンバーに3名も選ばれるクラブで、かなり本格的に取り組んでいました。

結果的にチームは、県大会ベスト8で敗退。
「中学では県大会優勝」とメンバーが言っていた中、私は周囲の期待を裏切り、陸上部に入部します。

理由は、チーム競技の限界を感じたからです。
県選抜メンバーは15名。
そこに3名も輩出するチームが、ベスト8の実力ということはないでしょう。
バスケは5名がプレーしますが、県選抜以外のメンバー2人(私ともう一人)も決して下手ではなかったと思います。
現に、私は市の選抜メンバーではありました。

それでも勝てない、これがチーム競技だと考えていました。
私は、個人の実力がそのまま結果に反映される競技をしたいと思いました。

今考えると、私がスラムダンクの流川のように、一人で局面を変えられるほどのエースプレイヤーだったらそうは思わなかったのではと思います。
その力がなかったことも、大きな理由だったに違いありません。

ただ、当時の私はそんな考えのもと、個人競技である陸上競技部に入部します。
その時点では、短距離か長距離かも決めていませんでした。
ただ、「短距離は才能のスポーツ」との考えがあり、より努力が結果に結びつくと思われる長距離を選択しました。

この話をすると、「中学生になりたてでそんなこと考えてたの?!」と驚かれます。
我ながら打算的だなと思います。
もちろん当時は、ここまで直線的に考えていなかったとは思います。
あくまで当時を振り返って言語化すると、こういう流れだったとご理解いただけると幸いです。

こんな流れで陸上部に入りますが、最初の一年は地獄の苦しみでした…。

中学一年

陸上のことは右も左もわからず、ルックスだけで選んだミズノの重たいシューズを持って参加しました。
皆にボロカス言われ、すぐにアシックスのシューズに買い換えたのを今でも覚えています。

当時の加古川山手中学は、勢いのある若いチームでした。
2年生に、小学校時代から活躍した3名がいました。
3人とも、学年別の県大会で決勝に残れるような粒揃いのメンバー。

そして、同学年の1年にスーパースターが。
小学校時代から全国で入賞していた、坂田拓也(元日本代表の小林祐梨子選手の夫)です。
入った当初から、学年別ではどの大会でも圧倒的一位と次元が違いました。
誰もが「才能」と認めるその逸材が入部したのです。
「来年は強くなる」と大人たちが言っていました。

休みの日の長距離クロカン走が行われた、日岡山公園。

名将の練習メニューは容赦なく、毎日へとへとでした。
特に夏休みは地獄で、午前中に学校で練習し、16:00から近所のクロスカントリーで長距離走でした。

間のお昼は疲労回復のために寝るしかなく、宿題をするのも大変。
夏休み明けには、担任の先生が心配になって親に連絡するほど余裕がない様子だったようです。

そんな練習を何とか耐えられたのは、一重に先輩と仲が良かったからだと思います。
かなり珍しいと思うのですが、先輩でも「◯◯くん」と呼び、タメ口で話していました。
練習後愚痴を言い合いつつ、練習は真剣に取り組む。
今振り返っても、とてもいいチームでした。

この雰囲気がなければとても耐えられなかったでしょう。
チームの雰囲気の大切さを学んだのは、間違いなくここです。

その猛練習の甲斐あってか、どうやら6人目のメンバーとして駅伝に出られそうだということになりました。
当初「駅伝」という言葉も知らなかったくらいなので、正直嬉しいという感情もなく、ただ身を任せていただけという感覚です。

結果は、チームとして地区予選4位、県大会10位。
3年生1人、2年生3人、1年生2人の布陣としては望外の結果。
来年6人中5人が残るので、全国も狙えるという雰囲気が出来上がっていました。

個人としては、地区大会も県大会も3kmのコースで10:10くらいだったと記憶しています。
チームの6番手は5区が定番ですが、その5区で1,2人に抜かれたはずです。
元々期待値は高くなかった分、皆からは「よくやった」と言ってもらえたのを覚えています。

その後は貧血になってしまい、同学年の女子にも負けるほど走れなくなりました。
しかも、貧血になかなか気づけず苦しい練習が続いてしまいました。

病院で処方された鉄剤を常用するようになり、再び普通に走れるようになった頃には、もう2年生間近でした。

ベスト記録
【トラック】
1500m:5:01

【駅伝】
・東播駅伝4位
5区:10:10くらい(詳細は失念)
・県駅伝10位
5区:10:10くらい(詳細は失念)

中学2年

この年は、大きく飛躍した年になりました。

貧血が治ると、みるみる記録が上昇。
トラックでは1500mで4:27を記録し、通信陸上大会の標準記録にあと一歩というところまで迫りました。

夏には膝の成長痛を患い、しばらく走れない期間がありました。
初めての故障です。

それでも秋には、3000mで9:22まで記録を伸ばせました。
この頃には、昨年はメンバー入りしていなかった同級生のもう一人も、9:22を出していました。
6名のメンバー全員が9:22以内、自他共に認める駅伝県代表候補の筆頭でした。

とは言え、何があるのかわからないのが学生駅伝。
また、一人でも故障や病欠が出ると大きく戦力ダウンが免られない状況でした。

それでも、まずは地区大会を初制覇。

5区終了時点では、前年チャンピオン(かつ全国2位)に11秒差まで詰め寄られます。
大きなブレーキはなかったのですが、それぞれが思ったほどタイムを伸ばせなかったことが要因です。

そんな展開でアンカー勝負の様相でしたが、その6区を任された私が区間賞で30秒引き離し優勝します。
プレッシャーがかかる場面ほど力が出るタイプだと自覚したのは、この頃です。

地区大会後の集合写真。後列左端が私です。皆いい笑顔。

続く県駅伝。
ここで優勝すれば全国駅伝です。

オーダーは地区予選と全く同じ。
狙いは1,2区で上位に喰らいつき、3区坂田で逆転。
4区のキャプテンで首位を盤石にし、5,6区の2年生2人がそのリードを守り切ると言うもの。
地区予選ですら5区終了時点で11秒だったものを、県駅伝でできるのか…。

まず、1区のMくん。
実は今で言う「豆腐メンタル」で、プレッシャーがかかる場面ほどタイムが落ちる傾向にありました。
しかし、この日は超絶プレッシャーを跳ね除け、各校のエースが集う1区で6位と好発進。
後で親御さんから聞いた話ですが、いろんな願掛けをしてもらったそうです。
メンタル面の影響って大きいですよね。

2区は高校でも先輩となるHMくん。
3年間で一番の走りを見せ、2位に浮上。
当時はサボり癖があったのですが、ほんとはめちゃくちゃ速い。
高校では練習の鬼と化し、國學院に陸上推薦で進学しました。

そして3区坂田が区間新記録の激走で18秒差を逆転、さらに10秒程度のリードまで作ります。
翌年からコースが変わったので、もしかしたら今も区間記録として残っているかもしれません。

翌日の神戸新聞朝刊スポーツ面。

4区はキャプテンHKくん。
3年生3人の中ではベスト記録では劣るものの、一番安定感があるタイプ。
この日もきっちり区間賞の走りで、独走体制を築きました。

5区は同級生のS。
区間2位の力走でリードを守ります。

そして地区予選に続き、アンカーの私。
タスキリレーの時点で40秒ほどの差があり、よほどのアクシデントでもない限り逆転されない自信はありました。
正直もう勝った気でおり、応援に笑みで返し怒られたくらいでした。
問題なくリードを保ったまま、ゴールテープを切れました。
全国駅伝の切符を掴んだ瞬間です。

翌日の神戸新聞朝刊一面。

ただ、個人の区間記録は7位と低調でした。
タイムはさほど悪くなかったのですが、同じくらいのタイムに何名も固まり、7位に。
2~5区の5名が区間3位以内で賞をもらう中、少し肩身が狭かったです。
朝刊に載ったことから、皆に「その区間順位でいいとこ取りしやがって」と責められました笑

続く近畿駅伝は選考レースではないので、メンバーが入れ替えられて3位。
大ブレーキ×2に、発熱と精彩を欠いたレースとなりました。
個人的にはいいタイムで走れたものの、区間4位と区間3位以内を逃し悶々とした記憶があります。

そして、年末の全国駅伝。
ここで名将が思い切った区間オーダーをします。

何と私をエース区間の1区に抜擢。
もちろん急に実力が伸びるわけもなく、チーム内では5番手です。
県大会までは1区が4.5kmと長いのですが、全国駅伝は全区間3km。
だからこそできた配置です。

毎回エース区間で区間賞を取れていないMくんに、そのチャンスをあげたかったのだと思います。
また、後半追い上げが名将の十八番です。
速いメンバーは、できるだけ後半に置いておきたかったのでしょう。
どの区間においても変わらない走りをするであろう私を配置したのは、自然な流れだったのかもしれません。

しかし、ここでアクシデントが発生します。
前々日になってHMくんが発熱。
肺炎を引き起こした状態で、強行出場することに。
この時点で2区を走ることは決まっていました。

さて、1区の私は持てる力を発揮したものの、区間34位(47チーム中)。
ただ、区間賞だった全中3000m8位入賞の選手から31秒差の9:43。
彼のトラックでの持ち記録が8分30秒台だったことを考えると、実力以上の走りだったと自負しています。

が、外から見たら出遅れも出遅れ。
翌朝刊で厳しく書かれて、少し凹みました。

2区HMくんも本来の走りには程遠く、私よりも悪いタイムで順位をさほど上げられず。
3区坂田は区間4位ながら、いつもほどは爆発せず。
4区Sも悪くないながら、10分台。
この時点で17位と、入賞圏内には程遠い状況。

しかし、ここからが圧巻の展開でした。
Mくんが8人抜き、区間賞の快走で9位に浮上。
そして、アンカーのキャンプテンHKくんもチーム内最速タイムで連続区間賞。
ラスト200mで前の選手をかわし、1秒差で8位入賞を獲得(8位までが入賞)。

非常に痺れる展開で、入賞。
とてもいい思い出になった一方で、上位は僅差だったことから、3位も狙えたと皆で悔しがったのを覚えています。

先輩たちとの駅伝はこれにて終了。
走る時は一人ながら、チームで出場することで一人の時よりも力が出る。
駅伝の不思議なところですが、大きな魅力です。
それを大舞台で経験させてもらい、メンバーには今でも感謝しています。

先輩たちが引退した翌年2月の地区の駅伝では、新チームで優勝。
新シーズンも、幸先良いスタートを切りました。

ベスト記録
【トラック】
1500m:4:27
3000m:9:22

【駅伝】
・東播駅伝優勝
6区:9:47(区間1位)
・県駅伝優勝
6区:9:44(区間7位)
・近畿駅伝3位
2区:9:38(区間4位)
・全国駅伝8位
1区:9:43(区間34位)

中学3年

この年も、春から比較的順調に記録は伸びていきました。
兵庫リレーカーニバルという、日本グランプリシリーズ第1戦にも指定されている大きな大会があります。
そこで6位入賞と、県大会レベルで個人としては初めて入賞します。
また、1500mでは4:15まで記録を伸ばし、市の大会記録を出したりもしました。
東播大会では800mで2:03をマークし、優勝。
全国の標準記録を狙えるタイムまで伸びてきました。

が、快進撃はここまで。
県大会までのほんの数週間の間に、前年と反対側の左膝を故障。
練習もできなくなる中強行出場するも、2:04と振るわず全国出場は叶いませんでした。

治った後の夏も低調で、なかなか調子が上がらず同級生のSにも負ける日々が続きます。
チーム内の雰囲気もいまひとつ…。
朝練時間を繰り上げて距離を伸ばそうとする坂田に、受験勉強に差し障ると反対する私。
陸上で進学する坂田とSに対し、受験で進みたい学校があった私は、こちらの事情も考えて欲しいとの反発がありました。
今となってはキャプテンとして必死だった坂田に、もう少し寄り添うべきだったと思います。

秋になってやっと調子が上向いてくるも、東播駅伝1区で十数位とめちゃくちゃ出遅れます。
チームも3位と、前年のチャンピオンチームから3人のメンバーが残っていることを考えると、物足りない結果。

あまりの不調に、県駅伝では当初1区を外れることになっていました。
が、3日前のタイムトライアルで、急激に復調。
前日に1区を言い渡されました。

県駅伝では好調そのままに、区間3位とエース区間で望外の区間賞獲得(中学は3位までが区間賞をもらえました)。
しかし、以降パッとせず、4区のSで一時トップに躍り出るものの、残りの区間で逆転され6位。
ギリギリの近畿大会出場権獲得です。

そもそも一年生がメンバー入りするなど、2年生があまり伸びていない状況でした。
そのため、4区までで大きなリードを作ることが必須。
それができず、後輩たちにかわいそうな思いをさせてしまいました。

近畿大会は直前に気管支炎になり、アンカーの配置。
胸が苦しすぎて、走り終えた後倒れてしまい、記憶がほとんど残っていません。
チームとしても個人としても振るわなかったと思います。

こんな感じで、最後は残念な終わり方をしてしまいました。
トラックでも悔いが残り、高校での継続を決めました。

ベスト記録
【トラック】
800m:2:03
1500m:4:15
3000m:9:14

【駅伝】
・東播駅伝3位
1区:不明
・県駅伝6位
1区:9:52(区間3位)※3.3km
・近畿駅伝?位
6区:不明(区間?位)

高校時代

兵庫県立加古川東高校に進学します。
地域で一番の進学校でありながら、自由な雰囲気漂う学校でした。

ただ、朝練は禁止。
夕方も決められた終了時間の厳守が命じられており、冬場は1時間しか練習できず大変でした。

しかし、顧問が現役時代に800,1500mの兵庫県記録を作るような、中距離のスペシャリストでした。
また、同校の出身で理論派。
私がそれを理解するのに時間がかかってしまいましたが、「考える」ということを学んだのはこの時期です。
工夫して質を担保することで、ある程度量を補えると学びました。

高校1年

先輩のHMくんが引き続き先輩であることは、先述した通り。
春休み中に声をかけてもらい、練習に参加していました。

受験勉強中は全く走っていなかったこともあり、体重が増えていました。
そのため、当初非常に苦しかったことを覚えています。

ただ、その甲斐あり5月のインターハイ地区予選では800m2:02と、ベストを更新。
1年生ながら準決勝組1位、決勝でも7位に入り、県大会出場権を獲得します。
県大会に進めず引退する選手が多い学校なので、皆にもてはやされて調子に乗っていたのを思い出しては、今でも恥ずかしくなります。

以降トラックでは、学年別では県大会決勝まで進むものの、決勝で失速するというパターンに陥っていました。
典型的な、そこそこ速い(持ちタイムはそこそこ)けど、弱い(勝てない)選手でした。

この頃には自分のことを「中距離選手」と定義しており、5000mにはほぼ出場しませんでした。
たまに出場しても16:00ちょっとと、凡走。

駅伝でも3km区間ながら、凡走が続きあまり記憶に残っていません。
イマイチパッとしない1年でした。

ベスト記録
【トラック】
800m:2:02
1500m:?
5000m:?

【駅伝】
・東播駅伝?位
2区(3km):不明
・県駅伝?位
2区(3km):不明

高校2年

2年目もほぼ1年生と同じ1年でした。
地区のレベルが下がったことから、インターハイ地区予選は800mで2位。
記録も2:00までは伸びました。
秋に1500mも4:06までは記録を伸ばせたものの、よかったのはこの2戦くらい。
相変わらず、学年別では県の決勝までいけるが、失速し勝てない。

駅伝シーズンには足首を痛めつつも、走れてはいる状態でした。
が、前日のメンバー発表でまさかのメンバー落ち。
中学1年生からこれまで、メンバー落ちをしたことはありません。
ましてや、強豪校でもない進学校。
実際、実力的にも余裕でメンバー入りのはずでした。

そのため、発表に愕然とし、異議申し立てに。
その際言われたのは、「故障していて、不安がある状態で使うほどの実力ではない」というものでした。
図星すぎて言い返せず、そのくせ悔しすぎて家で泣きました。
泣いているのがあまりに珍しかったのか、母が「やめてもいい」と言い出したくらいでした。

ただ、気持ちの切り替えは当時から得意。
翌日には「その通りだ」と感じ、選手の付き添いに専念していました。
同時に、「強くなる」との想いが沸き起こっていました。

毎年のように故障していたため、根本的に治したいと、プロボクサーも教えているトレーナーのもとに通いました。
その方の指導で延々補強運動を行い、年明けには完治。

復帰後、明らかに脚への負荷が下がり、練習強度を上げられました。
自身のレベルが上がったことで、顧問の抽象的な教え(あえてそうしているそうです)が急に理解できるように。
ここから急成長を遂げます。

ベスト記録
【トラック】
800m:2:00
1500m:4:06
5000m:?

【駅伝】
・東播駅伝?位
2区(3km):不明
・県駅伝?位
メンバー落ち

高校3年

始まった新シーズン。
地区の記録会で1500mに出場。

全国レベルの強豪である、西脇工業の選手も多数出場しています。
そこで4:08とタイムこそ平凡ながら、独走でトップでした。
高校では初めて「勝てる」感覚をつかみました。

続く県の記録会。
800mで1:57、1500mで4:02といずれも大幅に自己ベストを更新。
しかも800mは組で1位、1500mはラストで自衛隊の方に抜かれたものの2位と、勝ちにいくレースができました。

この時点で、目標は1500m3分台と、全国大会出場。
東播地区予選は調整なしで臨みました。

その1500mは決勝で、中学時代の同級生坂田に僅差で敗れ2位。
翌日の800mでは逆に競り勝ち、優勝。
駅伝に強い西脇工業は、長い距離の練習に特化しており、800mに合わせるのは難しかったのでしょう。
それでも「強く」なったことが嬉しかった。

続く県大会。
1500m予選は動きが悪く、ギリギリ組4着で突破。
決勝に臨むにあたり、「3分台を出す。それで近畿に進めなければ仕方ない。」と、自身のパフォーマンスにのみ集中したことを覚えています。

緊張のスタート。
両脇はいずれもT高校の選手。
2人から同時に押されたことで、こけかけて最後尾に。
ゼッケンは取れ、頭が真っ白になりかけました。

しかし、目の前に長田高校の有力選手がいることに気づきました。
長田高校は県内トップレベルの公立進学校。
勝手にライバル視していた選手でしたが、これまで一度も勝ったことがない強い選手でした。
その選手も後方にいたことで落ち着きを取り戻し、ついていこうと決意。

2週目あたりから一人また一人と抜いていき、ラスト1周の時点で9位。
目の前に3人いる状況。
抜けば6位に浮上し、近畿大会出場権を獲得。
バックストレートに入る手前で一気にスパートし、抜き去りました。
その後もスピードを緩めず、さらに長田高校の選手含む2人をかわし、4位浮上。

メインストリートに入り、3位の選手の背中も目の前でしたが、ここで体が痺れ動かなくなってきました。
長田の選手にも抜き返され、5位でフィニッシュ。
記録は3:59:56。
3分台で、近畿大会出場権獲得。
私の陸上人生の中で、最も輝かしい瞬間です。

顧問が常々、「感動させる走りが至高」と言っていました。
応援してくれていた部のメンバーから、「感動した」と言ってもらえ、それが何より嬉しかったことを覚えています。

無意識のうちに、長田高校の選手の肩を組みました。
彼も組み返してくれました。
少し話すくらいの間柄だったのに、ありがたい。
彼は今、元気だろうか。

800mは、準決勝で1:56:37と自己ベストをマーク。
しかし、着順で通過できず、タイムで拾われることに。
しかも、100分の1秒差でした。
トップ選手の巧みなブロックでポケットされ、内側から出られずメインストレートでかわされたのでした。
決勝は、3位までが大会新記録というハイレベルさ。
全員400mでもトップクラスの選手で、1周目のハイペースに対応できず最下位。
近畿大会出場はなりませんでした。

そして2週間後の近畿大会。
まさかのその間に故障。
中学時代と同じ…デジャブ。

前年と逆の足首を、痛めてしまいました。
直前の1週間ろくに練習できず、予選敗退。
800mも走っている私は、1500mではスピードがある方です。
それゆえ、ラストスパートで抜くことがほとんどだったのですが、この日は体のキレがなく抜かれて6着。
直前の刺激を入れられず、またアップもできなかったのが響いたと思います。

決勝はこれまた稀に見るハイレベルで、6位までが3:53とかだったと記憶しています。
決勝に進めていても、全国は無理だったとすっきりしてしまいました。

その後、故障明けにおふざけで出た400mは、52秒ちょい。
そこそこスピードはある方だと自覚できました。

メンバーの半分が引退する中、駅伝にも残りました。
東播駅伝では一区間くらい西脇工業から区間賞を奪いたいと思いましたが、全然及ばず。
区間2位ではありましたが、タイムは20秒くらい離されていたと思います。
やはり強い、西脇工業。

県駅伝では4区8kmの下りを担当しましたが、うまくスピードに乗れずブレーキとなってしまいました。
有終の美を飾ることはできませんでしたが、残ったことに悔いはありません。

「やった後悔よりやらぬ後悔」は今も自身の判断基準の一つです。

ベスト記録
【トラック】
400m:52:05
800m:1:56:376
1500m:3:59:56

【駅伝】
・東播駅伝4位
2区(3km):9:14(区間2位)
・県駅伝?位
4区(8km):不明

社会人

社会人になってからは、お遊びでたまにリレーマラソンなどに出るくらいでした。
今、記録を確認できるものだけ記載してみます。

2013/5:駅伝3km 11:15
2014/2:10km 48:45
2014/3:3km(クロカン) 10:54
2014/4:5km 19:44
2014/5:駅伝5km 20:20
2015/1:5km 20:44

これ以外にも、スイーツマラソンやファンランに出ていました。
妻(当時はまだ結婚していない)が、ランニングにハマっていた時期だったこともあります。
私自身は普段は全く走らず、大会に飛び入り参加という感じでした。
それで5kmキロ4切っていたりするので、若さってすごいなと思います。

2015年を最後に、レースには出場していません。
2023年10月にダイエット目的で走り始め、今に至ります。
この一年については、別の記事で書いてみようと思います。

まとめ

大変長くなり、自己満足記事となってしまいました。
公開をやめておこうかとも思ったのですが、せっかく書いたし、デメリットもないので公開します。
当時関わりのあった方に奇跡的に届き、連絡をもらえたりしたらとても嬉しいですね。
では、今日はここまでです。

日々のトレーニングについては、Xにて投稿しています。
よろしければフォローください。



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